ナラティブ(Narrative): ゲームとシナリオの関係
近年欧米のゲーム開発者たちを中心に広まっている「ナラティブ」という概念にまつわる、ゲームとストーリーテリングの関係性が、業界関係者たちの間で話題となり様々な意見が飛び交っている。
そもそも定義の難しい「ナラティブ」とは一体なにか、バンダイナムコゲームス所属のゲームクリエイター・鬼頭雅英氏は「プレイヤーがゲーム内で得た情報から『はっ、これってこういう事なのでは!』と背景にある物語を自ら発見し構築している感覚」と語り、著者として活動する松下哲也氏は「何か物語を感じさせるなあ」と直接的ではなく受け手に感じさせるモノとして紹介している。
「映画のように感動するゲームのストーリー」は難しい
ゲーム雑誌でライターを務める岩崎啓眞氏は「ストーリーテリングとゲームの関係は難しい」と語る。
「映画みたいなゲームを作りたいとみんなが思っていた」と岩崎氏は前置きし、1997 年に発売された『ファイナルファンタジー VII』が 3D を用いることでそれが原理的に可能であることが証明されたが、それがきっかけでゲーム業界は「ゲームとシナリオの乖離」に悩まされるようになっていったという。
「『ゲーム』なのか『ストーリー』なのか、未だこの問いに明確な答えを出せているゲームはないと思う」、ゲームとシナリオの乖離について岩崎氏は映画『スター・ウォーズ エピソード 4/新たなる希望』のラストシーンを挙げている。
映画と同じ状況を再現するとムリゲーになる
「『スターウォーズのルークスカイウォーカーになれたらいいな』→『ホントに同じ状況に置かれたらただのムリゲー』」と語る岩崎氏は、劇中での主人公が置かれた絶望的な状況をそのままプレイヤーに与えたとして、仮に直前のエリアでレベリングをすることでいつかはクリアできたとしてもそれがストーリーとしてうまく動いているとは言えないと述べた。
「映画のクライマックスでヒーローが乗り越える壁は信じられないほど高い。それを乗り越えるからこそヒーローだけど、普通の人はヒーローではない。普通の人はクリア出来ないゲームは基本廃れていきました。誰でもクリア出来るようにする究極の聖杯が成長メカニクスだった」
物語としてのストーリーが掲示されていながらも、プレイヤーに与えられた自由意思がゲーム内の物語を停滞させ破綻させてしまうため、映画のような物語のゲームを作ることは難しいと岩崎氏は語った。
「世界を救うために戦うはずなのに、やりこみ要素をプレイしているとか『世界を救うためにボス倒すクエストやりに行く人いませんかー?』とチャットが見えるのは世界として破綻している」
如何にセンス良く物語体験を届けるかが良し悪しを分ける
代表作『エースコンバット 04』などで知られるゲームクリエイター・鬼頭雅英氏は、単に光景やカットを挟むだけで、出来事の直接的な語りを抜きにストーリーを表す「環境ストーリーテリング」と呼ばれる手法がナラティブなゲームプレイ体験の良し悪しを分けると語った。
「ナラティブなゲームプレイ体験を作るにおいて、アクション RPG とかでダンジョン内のボス部屋に多数の人骨が配置されてると『多くの人がこのボスに挑んだが死んでいったんだな…』という事を感じたり、『はっ、これってこういう事なのでは!』と背景にある物語を自ら発見し構築している感覚こそが重要」
なぜその世界の建物はそういう形をしているのか、そういう服装をしているのか、物語の背景となる断片的な痕跡をプレイヤーに再構成させて、その体験が経験としてプレイヤーに刻み込まれるよう誘導することで「ナラティブ」なゲームを作り出せるのだという。
誰が何度やっても同じ事が起きるストーリーとは違う、プレイヤー自身の経験や出来事を通じて個々のプレイヤーに体験として刻むナラティブについて、今井晋氏は「ランダムを入れた創発的なストーリーテリング」と「環境ストーリーテリング」が答えを見つける足がかりになるだろうと述べた。