大の大人がゲームをする必要がどこにあるの

一つの洋ゲーが全てのゲームを過去のものに変えてしまった

はてブの新着に上がってたこの記事を途中まで読んで勢いで書いた文章だけど。スマホでちょっとしたゲームをするのはまだ分かるんだよ。俺が電車の中で時間潰しにネットを見るのと同じことだし。

でもゲーム専用機やPCでゲームをやる理由はどこにもない。仮想現実空間なんかに没頭するより、現実世界の方が楽しいだろ?

海外に行くまでもなく、日本、いや、自分の生活範囲でさえも、新しい発見をすることは、何歳になってもできる。画面の中で銃をぶっぱなしても、所詮コンピュータの中のことだ。それよりも、現実世界で体を動かしたり、実際に手にすることができる道具なりガジェットなりを触るほうがいいじゃないか。

身体感覚のないことをして、何になるのだろうか。ストーリーのあるゲームのことになると更に分からない。子供の頃FFにハマった世代だが、大人になって、小説や映画に比べてあまりにも軽薄なゲームに時間を奪われたことに、恨みに近い感情を抱いた。

軽薄な癖して、何十時間も時間ばかり奪っていく。こんなコストパフォーマンス最低なこと、アホらしくてやっていられない。

ゲームなんてやる意味が、どこにあるんだろう。

なんつーか、個人的に決めつけは良くないとは思っているけど、こういう意見の人は映画や小説を高尚なものとして考えて、ゲームはあくまでも下衆なものとしてみている傾向があると思う。

現実に残らないからダメ、所詮はただの仮想だからダメ、という主張らしきものはしているけれど、それはそのまま小説や映画へのブーメランになるんだがそこら辺はどう考えているんだろうか?

形に残るものしかダメなのであれば小説や映画だって虚構なただの霞で、ゲームと大差のない軽薄なものだ。だけどそれは違うっていうんだろ?そこがわからないよなぁ。

(たまに小説は本が残るとかいうバカがいるけど、本を集めるのが目的な訳じゃなくて、大多数の人間は本の中の物語を求めているんだからそんなのは反論になってない。ゲームだってソフトが有るしね)

思い出が大事なんだと思うけどなぁどんなものであっても。小説だって映画だってゲームだって思い出に残るという点では同じであって、それこそが一番大事だよね。何もどれも何もかもが変わらない同じ本質なのに、違う名称なだけで差別しているからそんな意見になってしまうんじゃないのかね。

ちょっと話がそれたようなので単刀直入に結論を述べてしまうことにする。現実でできることは現実でやればいいし、仮想でしか出来ないことは仮想でやればいい。本来現実を仮想に持ち込んでも、その逆でもなんら問題はないはずだが、そういう住み分けで解決じゃないか。

仮定の話、仮想世界でも現実と同じく身体感覚が得られるようになったらこういう手合いはどうするのかね。